身長185㎝・79㎏という日本人離れした恵まれた体格を生かして、Jリーグの前身である日本サッカーリーグからサッカー選手として活躍していた黒崎久志さん。
Jリーグでも、その高い身体能力で得点を量産していました。
黒崎久志さんが、サッカー選手として注目されていたのは学生時代からで、サッカー少年の憧れである全日本高校サッカー選手権大会での活躍にあります。
それでは、黒崎さんの学生時代からの流れを見ていきましょう。
目次
学生時代からスター性抜群
小学生時代には、すでに栃木県代表の選抜メンバーとしてプレイしていた黒崎久志さんですが、全国区の知名度を得たのは高校時代でした。
当時は2年生で、一つ上には後の横浜マリノスでも活躍した小泉淳嗣さんもいました。

この時は、残念ながら準決勝で敗れてしまい3位となりましたが、翌年の優勝への足掛かりは付ける事が出来ました。
高校サッカー史に残る出来事
黒崎さんにとって高校サッカーの最後の年である3年時には、キャプテンとなりチームを引っ張る存在となっていました。

栃木県予選を難なく突破し、いよいよ全国大会です。
準々決勝まで勝ち進んだ宇都宮学園は、室蘭大谷高校と対戦します。
ここで、高校サッカーの歴史に残る衝撃的な出来事が起こります。
両校の試合は、引き分けに終わりPK戦へともつれ込みます。
中々シュートを止めることが出来ず、キーパーまでPKを蹴りましたが終わらず、何と二周目に突入します。
そこで、遂に宇都宮学園の2年生がPKを外してしまい試合終了。
このPKを外した人物が、後に鹿島アントラーズに入団した根岸誠一さんでした。
試合終了後、黒崎さんは根岸さんに詰め寄り「来年お前がキャプテンだ」といって身に付けていたキャプテンマークを手渡し、高校サッカー最後の年を終えました。
セルジオ越後も太鼓判
サッカーの辛口評論家として知られるセルジオ越後さんですが、早くから黒崎久志さんのサッカーセンスに惚れ込み「全日本代表で活躍できる」と、早くから太鼓判を押していました。
現に、高校卒業と同時に全日本代表にも選ばれています。
生まれる時代が早かった
黒崎久志さんの時代は勿論、Jリーグは存在していませんでした。
プロでは無いものの、日本サッカーリーグに所属していた本田技研に入社し、午前中は仕事をし、午後はサッカーの練習をする毎日だったそうです。
その後、Jリーグが発足しましたが、本田技研がプロ参加を表明しなかった事から、鹿島アントラーズに入団します。
本田技研からは、かなりの選手が鹿島アントラーズに入団していますが、これは当時、本田技研の監督だった宮本征勝さんがアントラーズの監督に就任した事が大きかったといいます。
晴れてプロサッカー選手となった黒崎久志さんは、ようやくサッカー選手として集中できる環境となります。
名前も黒崎久志から黒崎比差支へと変更し、心機一転プロの世界へ挑みます。
Jリーグ創成期で躍動
鹿島アントラーズに入団し、1年目からレギュラーで活躍します。
長谷川祥之さんとの長身コンビで得点を量産し、鹿島アントラーズを常勝軍団へと導いていきました。

この時に、日本代表にも選ばれ、正に順風満帆のサッカー生活を送っていました。
日本代表では大きな壁が
鹿島アントラーズでは得点を量産し結果を出していましたが、日本代表では中々出場機会がありません。
その為、黒崎さんは日本代表ではベンチを温める時間が長かったです。
レギュラーには定着せず
同じ長身でパワーファイターだった高木琢也さんとポジションをあらそっていましたが、レギュラー争いで敗れてしまいました。
実力では、劣っていないだけに残念でしたが、監督が決めることなので致し方ありません。
あの中村俊輔さんでさえ日本代表に選ばれず涙をのんだことがあります。
Jリーグでは好調
日本代表としては、チャンスをあまり与えられなかった黒崎さんですが、そのうっ憤を晴らすように、Jリーグでは活躍します。
鹿島アントラーズを退団後は、京都パープルサンガや新潟アルビレックスなどに移籍し、それぞれのチームで存在感を示しました。
特にアルビレックス新潟では、44試合に出場し21得点を挙げ、その存在感を十分にアピール出来ました。
▼鹿島アントラーズ時代の勇士▼
|
指導者としての黒崎久志さん
サッカー選手としてのキャリアを終え、次のステージは指導者としての道です。

現役生活を終えると、途方に暮れてしまう選手が多い中で、今までの経験を生かし指導者として第二の人生を歩みます。
これは一重に、今までのたゆまぬ努力の結果です。
かくして、ご自身も現役時代活躍されたアルビレックス新潟の監督として活動する事となります。
監督としては厳しい日々
アルビレックス新潟の監督として初年度は9位と、そこそこ健闘したものの、その後は14位、17位と低迷してしまい、遂には監督を解任されてしまいます。
1年ももたずして解任されてしまう監督もいる中で、3年近くも監督を務められたことは素晴らしい事ですが、監督の厳しさを痛感したのではないでしょうか。
その後は各クラブのコーチとして、指導にあたっています。
まとめ
プロサッカー選手として活躍しても、現役引退後、サッカー関係の仕事ができる人はごく僅かです。
引退後は、全く別の仕事に就く人も沢山います。
そんな中で、サッカーと関われる仕事が出来るのはありがたい事です。
黒崎さんが、監督やコーチとして招聘されるのも、引退した後にたゆまぬ努力を続けた結果によるものです。
今後も日本サッカー界に、その経験を知識を後世に伝えていって欲しいです。